町田樹さんが語る「スポーツにおける感動の意味」

とても読み応えがある良い内容なので全文をぜひ読んで欲しいのですが、ざっくりと概要だけ説明すると

町田さんは自著で、若いアスリートに向けて「スポーツで感動は与えられない」と書いている

感動はアスリートのパフォーマンスと観客の感受性が結びつくことで初めて生まれるもので、アスリートが責任を背負う必要はない

社会やメディアがつくり出す「スポーツも社会の役に立たなければならない」という空気を気にしなくてもいい

「観る」側、「語る」側も、アスリートからそのような言葉を引き出そうとすることを自制する必要があるのでは

●私はそもそも「感動を与える」とか「感動をありがとう」っていう言葉がキライ。感動ってあげたりもらったりするものなの?と。
プロではない学生の選手が「皆さんに感動を与えられるプレイをします」って言うのはおかしくない?それは本来のスポーツの目標じゃないよーって思ってしまう。
●ああ、良かった。こう言ってもらえて。アスリートが「感動を与える」と言うたびに殴りたい気持ちになっていました。その人の頑張りや成果は、別に他の人を幸せにしたり感動させるためのものじゃない。国家のためでも母校のためでもない。見ている我々は、良かったね、嬉しいだろうねと思うだけ。
●感動は、するもの。
勇気は、出すあるいは出るもの。

町田さんに全面賛成します。

●激しく同意。
すごく傲慢な言葉だと思います。
最近この言葉を聞くたびに(もっと純粋に自分のために生きてほしい)と思っていました。
そしてその姿を観て誰かが勝手に感動する。
●マスコミが演出過剰なんだと思う
カンドウテキな演技!と持ち上げすぎて、シラケることがある